開きかけた記憶の扉は、鳴り響いたインターフォンの音に紛れ、また閉まった。
「あっ! いけない……」
夕李が午後四時頃には着くと、メールに書いてあったのを思い出した。体を起こすと、晧司さんの目が揺れていた。安心させたくて、頬を撫でた。しっとり湿っている。
「晧司さん、汗をかいているから着替えないといけなかったのに……気が付かなくてごめんなさい」
「いいんだよ。……行っておいで」
その言い方が、何だか……ただ玄関を開けにいくのではなく、そのもっと先まで私が行ってしまうのを黙って見送ろうとしているように思えて、素直に頷けなかった。
「晧司さん、私は」
さっき言いかけたことを続けようとした。けれど、喉の奥に塊がつかえたようになって、そのあとを言えなくて。私に触れようとして離れていった彼の手が、ますます切ない気持ちにさせた。わずか一分ほど前までは、あんなにも満たされた気持ちでいたのに。私たちは、体はふたつでも、ひとつの心を持って生きているのだと。それは錯覚だったの……?
「もうずいぶんと気分がよくなったから、着替えは自分でできるよ。熱いお湯に浸したタオルだけ、あとで持ってきてもらえるとありがたい。それと、彼が一段落したらここへ来てもらえるよう伝えてくれ」
「……わかりました」
半分だけ開いたままの窓が、ふわりとカーテンを揺らした。早く行きなさい、と風に言われた気がした。
「お待たせしてごめんなさい」
玄関を開けると、辺りを眺めていた夕李がにこっと笑いかけてきた。けっこう待たせてしまったのに、インターフォンを再び鳴らすこともなく、静かに待っていてくれた。
開きかけた記憶の扉は、鳴り響いたインターフォンの音に紛れ、また閉まった。「あっ! いけない……」 夕李が午後四時頃には着くと、メールに書いてあったのを思い出した。体を起こすと、晧司さんの目が揺れていた。安心させたくて、頬を撫でた。しっとり湿っている。「晧司さん、汗をかいているから着替えないといけなかったのに……気が付かなくてごめんなさい」「いいんだよ。……行っておいで」 その言い方が、何だか……ただ玄関を開けにいくのではなく、そのもっと先まで私が行ってしまうのを黙って見送ろうとしているように思えて、素直に頷けなかった。「晧司さん、私は」 さっき言いかけたことを続けようとした。けれど、喉の奥に塊がつかえたようになって、そのあとを言えなくて。私に触れようとして離れていった彼の手が、ますます切ない気持ちにさせた。わずか一分ほど前までは、あんなにも満たされた気持ちでいたのに。私たちは、体はふたつでも、ひとつの心を持って生きているのだと。それは錯覚だったの……?「もうずいぶんと気分がよくなったから、着替えは自分でできるよ。熱いお湯に浸したタオルだけ、あとで持ってきてもらえるとありがたい。それと、彼が一段落したらここへ来てもらえるよう伝えてくれ」「……わかりました」 半分だけ開いたままの窓が、ふわりとカーテンを揺らした。早く行きなさい、と風に言われた気がした。「お待たせしてごめんなさい」 玄関を開けると、辺りを眺めていた夕李がにこっと笑いかけてきた。けっこう待たせてしまったのに、インターフォンを再び鳴らすこともなく、静かに待っていてくれた。
「君がそこにいてくれるだけで、ほかのどんな薬もかなわないほどの効き目があるんだよ」 眠気を含んだ声は、強めの薬のせいだろう。クスッと笑わずにはいられない。「そう言ってもらえるのは嬉しいけど、夜はまたあれを飲みましょうね」「ごまかせなかったか。さすがだ……」 指を絡めて擦り合わせ、きゅっと力を込めてくる。彼の体温を、私に刻み込もうとするかのように。それは、私の記憶の中にも確かにあるように感じられた。運命のいたずらは、私から彼に関する知識を奪ったけれど、温もりの記憶は奪えなかった。 胸のときめきが、私に何かを告げようとしている。彼の胸も同じようにときめいているに違いない。思い込みではなく、確信。私たちは――ひとつの魂を持っているんじゃない? ああ、きっとそうなんだ。昨夜確かに、お互いのものだと感じた。熱に浮かされての衝動ではなく、肌を合わせることで心の蓋が開きかけたんだ。「晧司さんっ……」 横たわる彼に縋りつき、頬にキスをした。無性に、そうしたくなった。「晧司さん、私……」「どうしたんだ? 大丈夫だよ。大丈夫だ……」 私の突然の行動を、不安から来るものだと受け取ったのか、しきりに背を撫でてくれる。もっと、もっと触れたい……あなたとの間にあるものを、触れることで解き明かしたい。あと少しで、頭の中の鍵が開きそうな気がするの。「リン……」 ぎゅっと抱きしめられて、心の底から安心して、あたたかいものが体中に、胸いっぱいに広がっていく。ああ、この人は私の――。 その時、もしもインターフォンが鳴らなかったら。 真実はもっと早く明らかになっていた――? いいえ。 もっと、ずっと遠くなっていたのかもしれない。
嵐のように晧司さんと求め合った翌日。春日さんと夕李からのメールを二人で読んで、素直に甘えることにした。 渋々飲んだ風邪薬は、よほどよく効くらしい。また一時間ほど眠って目を覚ました時、晧司さんの表情は普段に近いものに戻っていた。あのドリンクの効果で、二日酔いも治ってきたみたい。彼が眠っている間、私は飽きることなく寝顔を見て過ごした。どんな関係であろうとも、彼が私にとって、世界で最も身近な存在であることに変わりはない。「リン……」 ゆっくりと目を開けた彼が、私を呼ぶ。「晧司さん」 私も、彼の名前を呼ぶ。そこに込められた意味を記憶の中から掘り起こそうとするかのように、口の中で転がしてみる。 何度も何度も、私はこうして彼の名を声に乗せてきたのだろう。寝室で、昨夜と同じ近さと熱さで。朝の光の中、見つめ合って口づけを交わして。そうやって繰り返された日常があったことを、今の私は、思い出せなくとも疑ってはいない。彼とは、一夜の関係や気まぐれなものではなく、絆を確かめ合ってしっかりと手をつなぎ、歩いていたのだ。記憶を失う前の、私は。 記憶を失ってから、ずっと、彼に手を引かれてきた。それを今、自分から手を伸ばそうとしている。だって、私たちにはそれが当たり前だと感じるから。 世間的に許される関係だったのか、そうではなかったのか。わからないことばかりだけど、今、お互いの目の中にあるものを信じたい。「気分はどうですか」 ベッドに座ると、緩慢な仕草で腕を伸ばしてきて、手を握ってくれた。
晧司さんは、二時間ほど眠り、いくらか顔色がよくなって目を覚ました。「リン。……ずっといてくれたのか」「ええ」「退屈しただろう」「私がこの部屋で? まさか! 本がたくさんあるんですもの。……そうだ、お薬飲みましょうね」 春日さんに教えてもらったところにあった薬の箱を手に取ると、彼はあからさまに嫌そうな顔をした。「……それか」 顆粒の薬を一服分、私が箱から出すのを、じーっと見ている。できれば途中で気が変わってくれるといいんだが……とでも言いたそう。「この薬に、何か問題でも?」 春日さんが彼のために常備しているなら、変なものではないはずだけど。「まずいんだ……」 子供みたいな言葉に、こんな状況なのに笑みが浮かんでしまう。渋々半身を起こした彼が薬を飲み下した時、私の携帯がメールの着信を知らせた。「春日さんかもしれません。……え?」「どうした」「待って……もう一通」 二通目は、夕李から。確認して、二人の行動力と決意に感服した。晧司さんの目の前に画面を持っていく。『影野氏より助力の申出がありました。明日は私も行きますが、その前に必要になりそうなものは彼が今日届けてくれます。変な遠慮はしないように。お二人とも、そういうところは不器用ですからね』『春日さんに連絡しました。午後四時頃にそちらに着く予定です。買い物リストとお金は彼から預かっていますのでご心配なく。ほかに必要なものがあれば、電話でもメールでも入れてください。天霧さん、くれぐれもお大事に』 春日さんも夕李も、私たちの行動や気持ちを予測している。二人でメールを読み、顔を見合わせるところまで、お見通しなのだろう。「これは何とも……参ったな。いや、ありがたい」「ほんとに……」
彼はスープを飲み干し、「少し眠るよ。そばにいてくれないか」と言った。「はい」と答え、ベッドの縁に座った。 数分後、規則正しい寝息が聞こえてきた。そっと立ち上がり、肩までブランケットを引き上げた。窓は半分だけ閉め、抜き足差し足でいったん部屋の外へ。お皿を下げ、自分のスマートフォンを持って彼の寝室へと戻った。 椅子に座り、彼の呼吸を聞きながら春日さんにメールを書いた。『晧司さんが二日酔いと、風邪も引いているようです。二日酔いの方はリクエストされたドリンクを作ったのですが、どこかに風邪薬はあるでしょうか? 今朝はスープを飲みました』 送信すると、すぐにSMSが入ってきた。『今、話せますか?』『晧司さんがそばで寝ていますが、部屋を出れば』『ではそのままで。鬼の霍乱ですね。あのドリンクを飲めたのなら心配はいらないでしょう。風邪薬はリビングの引出し、上から三段目にあります。甘やかすのはほどほどに』「甘やかすって……」 思わず呟いた。晧司さんが酔った理由も、風邪を引くほど弱ったわけも、春日さんにはお見通しかもしれない。 もう一人、連絡しなければならない人がいる。夕李。昨日、傷つけてしまったのに、「愛してる」と暗号で伝えてくれた。あのあと、彼からの連絡は入っていない。深く息を吸って、文面を考えた。『晧司さんが風邪気味で、今日は一日看病します』 昨日、ホテルに行くまでの間は、これからも会える時は毎日でも会って、関係を深めていくのだと思っていた。けれど、こうなってしまってはもう――。下書きをした文章の最初か最後に、昨日はごめんなさい、と書いてもよいものかどうか。それを書いたら、永遠に終わってしまう気がした。 終わりで、いいんじゃない? 終わりにしなくては――夕李のために。 私の心も体も、どうしようもなく晧司さんに結びついている。それがわかった以上、夕李を縛り付けることは許されない。彼との時間は、とても楽しかったけれど……。 迷って、画面を閉じることもできずにいると、新着メールが入ってきた。「あ……」
爽やかな朝の空気で満たされていく部屋の中、唇で熱を分け合う。このまま、昨夜の続きになだれ込んでも構わない……彼の手の力も強まっていくし……ああでも彼は体調が悪いんだった!「ン……はぁっ……晧司、さん」 ぽんぽん、と肩を叩くと、「もっと」という目をされた。二日酔いで、たぶん風邪も引いていて、私を抱いてしまった後悔の塊を抱えながらも、触れればこうして求めてくれる。彼が元気を取り戻せば、もう少し冷静に話ができると思うから……今は、看病が優先。「スープ、飲みましょう? 具がすっかり溶けているので、喉にはあまり障らないと思います」 髪を撫でて言い聞かせると、拗ねた子供のように頷いて体を離した。かわいいっ! 事態はなかなかに複雑なのに、胸がキュンキュン騒ぐ。スープを取る前に窓を少し閉めようと動くと、くいっと服を引っ張られた。……それ、ちょっと前の私がやるならともかく、晧司さんが。かわいくて悶え死にそう。「窓を閉めるだけ……すぐですから」「そのままでいい。だから……」 ――離れたくない。 瞳に浮かんだ心の声に、負けてしまった。彼が眠っている時に、こっそり閉めればいいかな……。「わかりました」 よしよしと宥めて、お盆ごとスープをベッドの上へ。新鮮な野菜が溶け込んだトマト味。持ち手のついているカップだから一人でも飲めそうだけど、試しに私の手で口元に持っていった。彼は満足そうにそれを受け入れ、こくんとひと口飲んだ。こくん、こくんと吸収されていく栄養。支えるでもなく彼の背に手を添えると、言いようのない安心感が生まれた。おそらくこの距離は、私たちにとってごく自然なもの。 脳裏に焼き付いた指輪の輝きは、いつかはその意味を知らなくてはならない。怖いけど、今の私にできるのは、現在と未来をしっかり生きていくこと。怯まずに明日を迎え続けていけば、過去の点と結びつく瞬間が、また訪れるだろう。 古代の人々は